秋月院の由緒・沿革
曹洞宗 弓頭山 秋月院
創建 慶長3年(1598年) 山号 弓頭山 宗派 曹洞宗
本尊 愛敬薬師瑠璃光如来(あいけいやくしるりこうにょらい)
脇仏 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)普賢菩薩(ふげんぼさつ)十二神衆等
(この御本尊様は弘法大師作と伝えられ秘仏として安置されている。)
秋月院の由緒要約
本山は、永平寺、総持寺 本寺は、下野国( 栃木県) 大中寺
熱田神宮の東の田島に創建され(右地図は熱田所在当時地図)、その後、昭和13年( 1938年)現在の地に移転された。
寺は、今川義元の弟の今川氏豊の娘によって開かれた。娘の法名を秋月院といい寺号とした。
山号は、その夫「中野又兵衛尉重吉」が、小豆坂(あずきざか)七本槍の一人で、弓衆を束ねる者であったため、弓頭山とつけられた。
秋月院本堂
現在の本堂は、ニ十七世真道代になって、四十年ぶりに昭和五十一年八月より五十二年八月竣工 設計施工は株式会社長瀬組にて、地下駐車場三七六・五二平方米、 一階本堂は二八一・三五平方米を建築費約九千萬円にて再建立したものである。問口約七間、奥行拾間半、総坪数約八十五有坪。
本堂新築完成してより七周年にあたる昭和五十九年に大般若経六百巻を勧募し、その開繙法要と同時開山建室和尚の三百七十回忌、二世尊海和尚の三百回忌、開基様の三百八十有回忌 の法要を厳修しようと計画している時に誠に不思議と思う程に、開基中野又兵衛尉重吉の孫娘が名古屋に居住していられることが偶然にも知る事が出来たおかげで、その中野氏が所有して居られた 開基様の肖像画又開山建室和尚の書簡等を観ることが出来これこそ因縁と云う事であろう。
秋月院の由緒 古文書より
再建立体尊開帳の募縁記
秋月院開山大中寺十一世健室和尚の書簡で380〜390年前のものと思われる
尾州愛知郡千眼□熱田田島町曹洞宗弓頭山秋月禅院殿堂の大破に及び候に付、当寺為再建立体尊開帳の募縁記
抑々当寺に安置し奉るは愛敬薬師瑠璃光如来なり。
此の奉像の濫觴(らんしょう)を尋ぬるに弘法大師の御作にして当寺の開基慶長年中御当地において竹腰御佐家御家中
松浦氏の先祖の佐之助と申して参州小豆坂七奉鐙の壱人中野又兵衛尉重吉也、むかし岐阜中納言信秀之御幕下にして数度、
軍功有、信秀公御逝去の後、信長公に就て忠節を抽んず。
其の後、後の関白秀次公へ、秀次公御障害の後当所田島へ引籠り、
夫妻共病死の砌跡の儀遺言に任せ則ち扣居屋敷を一禅寺に取立て寺領となし、田地も寺に置く。
開山は下野國富田の大中寺建室大和尚なり。
右重吉の内室、今川義元の御舎弟。徃古尾州名古屋城主今川左馬佐氏豊の息女なり。則ち法名に秋月院と申し候、
寺号と称し山号は右重古一騎の比弓頭勒。茲に因って弓頭と号すと。右建室和尚は則ち左馬え佐氏豊の舎弟なり。
さすれば伯父、姪の因縁(縁)によって閑事とし開山と成し、また当寺奉尊は重吉代々家伝なりし守り奉尊なりしとて安置しぬ。
右松浦氏、当寺において…大檀那の因縁を以て、今般竹腰御氏家の御代々其の名も高き御宝物なり。
中将姫蓮糸の曼陀羅一軸これなり。今の度開扉の序えお以て願い奉る。
諸人結縁の為に披露普く礼敬せしめんと欲し爰において十方他力の化縁を募り信心随喜、勧めをも共にして、建立成就なさしめぬ。
三輪空寂の功徳力は二世安楽勝縁たらんと敬って白す。
寛政九丁己年九月 九頭山秋月院 現住毅督成
秋月院の開基・秋月院最古の碑
秋月院の開基
秋月院の開基は、今川義元の弟の今川氏豊の娘(今川義元の姪)。中野又兵衛重吉の妻。(右図 秋月院の肖像掛軸。)
この娘の法名を「秋月院殿花顔桂秀大姉」といい寺号とした。
中野又兵衛尉重吉(なかのまたべえいじゅうきち)(中野一安 なかのかずやす)は、織田信秀( 信長の父) の家来の時、織田方と松平・今川連合軍が合戦を行った小豆坂で功名を得て小豆坂七本槍の一人と数えられた。
小豆坂は岡崎城に近いところにあり、この合戦は、天正11年( 1542年) に行われ、小豆坂七本槍の奮戦によって織田軍の勝利に終わっているという。
合戦は、尾張から西三河へ進出してきた、織田信秀の軍と岡崎城主松平広忠(ひろただ)(徳川家康の父) と弱体化している松平氏を救援する今川義元の連合軍の戦いであった。
織田軍が勝利したが天正17年( 1548年) 再びここで合戦があり、この時は、太原雪斎(たいげんせっさい)を大将とした松平・今川連合軍が勝利している。
中野は、「本能寺の変」後、秀吉に仕え、その後、関白豊臣秀次( 秀吉の甥) に付き、秀次死後は、浪人となったが、秀吉から壱萬三千貫の地を受けたとされる。
秋月院最古の碑
秋月院の「へそのお」をまつったとされる石碑で、慶長年間(1596〜1615年)に建立と伝わる。
中野石見守源長風掛軸
中野又兵衛尉重吉の子孫にて八代目
中野石見守源長風堺奉行次に佐渡奉行職又大坂町西奉行職仰せつかった。 従五位下前石州刺史と位があった。